人間はあくまで1人の個人として尊重されなくてはならないのである(個人の尊厳)」「人間尊重の社会においては、おたがいを人間として尊重すると同時に、おたがいの願いを尊重することも大切である。
自由でありたい、平等に扱われたい、幸せになりたいといった人間としての自然な願いは、同時に私たちが生まれながらにしてもっている権利と結びつくものであり、このような権利のことを人権と呼んでいる」(K『C』)もちろんここでは他者への配慮ということも強調されてはいる。
しかし要は「自由で豊かで幸せな人生を送りたい」という「人間としての自然な願い」を実現するために、その心の働きを規制することをもって「道徳」教育の目的である障害となるあらゆる「差別」や「束縛」から解放されること。
これが「人権」の意義にほかならないのだというのである。
ここに書かれていることは近代市民社会の原理(それをそのまま肯定すればの話であるが)からすれば何も間違っていない。
近代市民社会は欲望だとか本能だとかというものをも含めて「人間としての自然な願い」を解放し、そのことを合理化し正当化するためにこそ「人権」という概念を確立したのである。
「道徳」が人の心の働きを規制する性質のものであるとするならば、「人権」とは逆に人の心の働きを解き放つ性質のものであるといって差し支えないだろう。
問題はこの「人権」の概念が単に欲望だとか本能だとかのレベルにとどまるような「願い」をもそのまま肯定してしまうことにある。
それでも「人権」の主張が、自律的で教養ある紳士的な大人によってなされるならば、つまりその「願い」が高尚である分には問題は少ない。
しかしながらこの「人権」が未だ発達途上にある少年少女たちによって振り回されれば、それはそのまま彼らの欲望や本能のレベルに過ぎない未熟で低俗な「願い」をも肯定し合理化してしまう虞があるということである。
大人に対して子供の権利にも配慮せよというのならともかく、子供もまた大人と同等に権利行使の主体であり、上記のような権利が保障されているのだと強調することが未だ教育段階にある少年少女たちの心に如何なるメッセージを伝えることになるのか、この教科書の執筆者は考えたことがあるだろうか。
現代の「人権」教育は、このように、「自由で豊かで幸せな人生を送りたい」という「人間としての自然な願い」について、その理想像は何ら教えることなく、ただ少年少女たちの未熟で低俗な情欲を駆り立て、その解放をもって善しとするというメッセージを彼らに発している。
その結果、社会生活や集団生活を送っていくうえでは不可欠ともいえるルールについての感覚も持たず、無軌道に振る舞い、またごくわずかの規制にも耐えられずに、すぐに逆上して(「キレて」)しまう「ひ弱な自我」をつくり出しているのである。
情欲のままに行動することを「個人の自由」だと思いなし、わずかの規制にも耐えられない「ひ弱な自我」を育ててしまったのは何も学校教育の責任だけではない。
人格の陶冶という意味での「道徳」教育は行われず、欲望の解放と是認という意味での「人権」教育を行っているのは家庭もまったく同じなのである。
現代の家庭では少子化の影響もあって子供たちは幼い頃から、好きなことは何をしてもよい、嫌なことはしなくていい、欲しいものは何でも買い与えようという具合に、だいたいにおいてその欲望を肯定されて育てられている。
また個人主義的傾向と仕事や趣味に忙しいあまり、親自身が次世代を育てるという子供への責任感を失いつつあり、子供を育てること自体を煩わしく思う気持ちにもなっている。
そのため自由放任主義に堕して、とかく子供を甘やかしてしまう傾向にもある。
子供と対等な関係を築くことが理解ある親である。
「(この条約では)基本的には大人と同様に、意見を表明する権利や、思想・良心・宗教の自由、結社・集会の自由などの権利を保障したことが注目されています。
これは大人に保護される対象としての子どもから、権利を行使する子どもへと、子どもに対する考え方の変革を含んでいるためです」。
そのうえ、近年では「児童の権利条約(子どもの権利条約)」の意義が特筆大害され、子供(満18歳未満の全ての者)もまた大人と同様に権利行使の主体であることが強調されることになる。
このように見てくれば、今日の青少年の常軌を逸した行動は道徳教育を放棄し、「人権」教育に逼進してきた戦後教育の”成果”であることは明らかではないか。
彼らは戦後教育の理念をそのまま実践しているだけなのである。
現行の教育基本法は「個人の尊厳」をいい、教育の目的として「人格の完成」を掲げている。
しかし道徳教育なきところに「人格の完成」も「個人の尊厳」もないはずである。
道徳教育を通じて陶冶することではじめて人格は完成し、尊厳性が備わるのである。
り、あるべき親子関係であるとの認識も一般化している。
子供の欲求を最大限尊重して、やりたいことをやらせることが子供にとっても幸せなことだとも考えられている。
その背景には本来、子供に社会の価値や規範を伝えるべき親自体にその意思と能力が欠如しているという問題もあるだろう。
何れにせよ、子供たちは学校に進み、教師の管理下に置かれる前に、このような家庭環境の中でたっぷりと欲望を肯定され、大人とも対等な関係にあるように思いなしている。
子供たちの「ひ弱な自我」はまず家庭において育てられているのである。
しかしながら戦後の教育は道徳教育の理念を欠いたまま、ただただ「個人の尊厳」や「人格の完成」という空念仏を唱えてきた。
陶冶されていない幼稚で低俗な「個性」にも「尊厳性」が備わっているかの如く子供たちに接してきた。
その結果が今日の教育荒廃であることはもはやいうまでもないことである。
教育改革国民会議の最終報告書は「学校は道徳を教えることをためらわない」ことを求めている。
これまでの学校教育が道徳教育を事実上放棄してきたことを考えれば意義あることではある。
しかし同時に家庭も子供たちに道徳を教え、膜けることをためらってはならない。
学校・家庭・社会三者が一体となって次代を担うべき子供たちに人間として、社会人として、そして日本人としてのあるべき道徳を教えなければならないのである。
その意味で参考になるのは、かつての教育荒廃を立て直しつつあるアメリカの事例である。
現在、アメリカでは「ゼロ・トレランス」すなわち「寛容さなしの指導」という考え方によって学校に見違えるほどに規律が戻り、教育が正常化されつつある。
すなわちアメリカの公立学校では細かい規則をつくり、規則違反の生徒にはただちに罰則を施行する。
程度に応じて、場合によっては「オルタナティブ・スクール」という矯正のための学校に送致し、身をもって罰を体験させて、反省し立ち直れば元の学校に戻すという方式をとっている。
また教科科目においても学問的に高度な内容を学習させ、学力の向上を図っている。
規律の中で子供たちはむしろ伸びやかで自由で明るい学校生活を送ってこの状況を憂えて立ち上がったのが当時の父母たちであった。
父母たちは草の根で「基本に返れ」という運動を展開した。
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